洗濯物を畳んで、少し休憩をする。ウォーターサーバーに付属しているコーヒーメーカーを起動させて、好きなフレイバーを楽しむ生活。きっと多くの女性が羨むであろう、そんな優雅な生活を私は過ごしているだろうと思う。つい半年前まで慌ただしく夜勤シフトにも積極的に出ていた私が、何故こんな百八十度世界観の違う世界を生きているのだろうかと、我が事ながら不思議でしかなく、実感が湧かない。私の日常はとても穏やかで、それでいて酷く孤独で、そして退屈だ。あの時夢に見ていたこの生活は、私が勝手に思い描いていた虚構だったのかもしれない。


 十代の頃から、長らく東さんの事が好きだった。きっときっかけは、幹部勢を除いて十代の若い隊員が多い中で、年長者であり指導者でもあった彼に憧れや、他の隊員にない落ち着きがより彼を魅力的に映したのかもしれない。昔、冗談半分で言った事があった。
「東さんって結婚願望ある?」
 質問の意図は簡単だ。私には到底、彼に結婚願望があるようには見えなかったからで、その答えを貰ってしまえば彼の事を諦める少しばかりの材料になるのではないかと考えたのだ。けれど、思ってもみない形で私の想像とは少し違う言葉が耳にするりと入り込んできた。
「よく分からないが、ない訳ではないと思う。少なくとも今じゃないけどな。」
 東さんでも分からない事なんてあるんだなぁ、と妙な違和感を感じたと記憶している。恐らく何でも見通している彼には、物事の正解が全て見えているのではないかと私は思う。だからきっと、私が持っていた微かな恋心が年を追うごとに膨み、こんな無謀な質問を投げかけていると聡い東さんには透視するが如く見えているに違いない。そんな彼が、真っ向から私の質問に対してこう述べたのは、少しばかり私にチャンスを与えたという意味だったのだろうか。その時の私には、少なくともチャンスに思えたのは事実だ。
「じゃあ後五年経って、東さんが三十になって独身だったら私と結婚しましょ?」
「五年って想像以上に早いもんだぞ。それに、若ければ気変わりもあるだろう。」
「もちろん私もその時独身で、かつ東さんと結婚したかったらっていう条件で。」
「随分と都合がいいんだな。」
 こんな感じで言えばどさくさに紛れて、私の本気じみた告白も少しは緩和されて受け入れ安くなるだろうという、あまり意味のないカモフラージュを飾りつけた。そうでもしないと東さんが自分と付き合ってくれる未来も見えなければ、結婚してくれる未来など見える訳もなく、そうまでしても手に入れたいと思った。それが一時の憧れであったとしても、五年が経っていい大人になった二十五歳の私になら見極めることが出来るだろう。その時の、大人な自分がまだ彼の事を好きだった時のための保険をかけたのだ。
「決まりですね。」
「そういった約束は同世代とすべきなんじゃないか。」
 何の効力も持たないそんな約束に期待を抱いて、私は自分よりも随分と高い位置にある彼の顔を見る。やれやれと少し困ったように笑うこの顔ですら、私にとっては感情を揺さぶられる。今回のこの突然の提案以外でも、東さんは質問に対して自分の感情を乗せたり、物事を断定するような言い方はしない。全てこちら側に委ねたまま、やんわりとその場を収めていく。あの時の私は、これが大人な対応なんだとそう思っていたのかもしれない。
「その時の東さんに結婚願望があれば、のはなしです。」
 あの時の東さんは、うんと頷くことも私を否定することもなく「は少し強引なところがあるなぁ。」と言ってポンといい位置にあった私の頭に手をおいて、ただ少しだけ困ったように笑っていた。あれから五年が経って、私自身こんな結末になるとは夢にも思わなかった。
 二十五になった私は、二十歳の頃と何も変わらない。二十歳と二十五では響きも聴こえも全く違うのに、中身はあの頃から大した成長を遂げていない。その一方で、防衛任務にしても、夜勤一つにしてもあの頃よりも酷く疲れるようになったし、体力の減退を嫌でも感じるようになっていた。
 二十歳の頃の私がどんな二十五の自分を想像していたのかは上手く思い出せないけれど、きっとこんな現実を思い描いていなかったのだけは間違いないだろう。もっと聞き分けも分別もできる大人になっているだろうと想像していたに違いない。随分と残念な大人になってしまったと悲観する一方で、中学生の頃に見た高校生がどうしようもなく大人に見えて、高校生になった自分は大学生に憧れたように、いつか自分もああなろうと憧れた姿には、いつまで経っても追いつかない。思い描いていたその時々の年齢にたどり着いた事はないのだから、物心ついた時から見た目以外の部分で私は成長していないのかもしれない。
「東さんはこの五年間どうでした?長かったか、それとも短かったか。」
 子どもの頃に比べて、歳を取るごとに時が過ぎていく感覚が短くなっていくのは何故なのだろうか。一週間が一瞬で過ぎ去っていく生活を続けている内に、気づいたら効力を持たない約束の年齢にまで私は到達してしまっていた。つい数日前、東さんも三十になってばかりだ。
 東さんの誕生日記念にと、小洒落たバルへ連れて行ってくれとせがんだのは私だった。誕生日の俺が強請るんじゃなくお前が強請るのは斬新だなと言いながらも、仕事に時間を見つけて私に時間を作ってくれた。二十五だった東さんよりも、三十の東さんは今の私にとってより魅力的に見えた。彼は数年前に防衛任務から足を洗って幹部入りを果たした。その分現場で見かける事もなくなり、非常勤でありながら研究員として大学に籍を置いている彼は前にも増して多忙を極めていた。
「たまに吃驚するよ。まるで死に向かって生きてるようにすら感じる。」
「同感です。私も、五年なんて一瞬で本当にあっという間だった。」
 東さんの意見と同じ感想を持った私は、もしかすると自分の知らない間に少しだけ大人になっていたのかもしれないと人知れず喜んだ。けれど、私はこんな事で満足してはいけない。あの時の約束を、今こそ実行するしかない。その為の布石は作っておいたし、実行するなら今を逃して他はないだろう。酔いが回らない内にと、けれど少しばかり酒の力も借りてから挑もうと残りの酒を喉へと流し入れた。
「東さん、誕生日おめでとう。」
「ありがとう。祝ってもらえるような歳でもないが、嬉しいもんだな。」
 彼の本音は、いつもその一定の距離を保った言葉を隔ててしか私の元へとやってこない。少しだけ大人になった今の私にも、彼の気持ちは読み解けない。生きている限り、私と彼の歳の差は一生埋まる事がないのだから、彼はずっと私の五つ年上の男性で、私は五つ下のままだ。どれだけ追いついても、やっぱり私の先を行く彼の思考なんて幾つになっても分からないのかもしれない。
「ちなみに、今の東さんの結婚願望は?」
「昔に聞いたような台詞だな。」
「あの時の再現。時は満ちたのかなと、そう思って。」
「そうだな、そういうお前はどうなんだ。」
 やっぱり五年経っても彼も変わっていなくて、質問に対して私に質問返しを実行する。ここで、私は何と答えるのが正解なのだろうかと考えて一度言葉が詰まった。二十歳の頃の私であれば、間違いなく率直にどうしたいのかを伝える事はなかっただろう。けれど二十五の今の私は、少しばかり大胆になったのかもしれない。余す事なく、自分の今の希望を口にすることにした。
「東さんが、好き。」
 質問返しに質問を返せば一生彼の結論には辿り着けないと、それを理解した私は少し賢くなったと東さんは思ってくれるだろうか。この答えが、私が今持ち得ていた選択肢の中では最も正解に近い回答のはずだった。
「…それで、俺はどうすればいいんだ?」
「東さんの彼女になりたい。」
「意外だな。お前なら結婚を切り出すかと思った。」
 限りなくこの場での出来うる最善のルートを踏んだつもりではいたけれど、まさか私の提案がそのまま通るとは夢にも思わない。それどころか、私の想像している以上のことが今まさに起きようとしていた。ここまで展開を作り上げて蹴散らすと言うのであれば、彼は極悪非道だ。もう二度と立ち上がれないかもしれないと一定の恐怖を残しつつも、私の心は明らかに期待へと弾んでいた。
がしたいんだったらしようか、結婚。」
 あの時程、自分が求めている言葉と耳に入る言葉に整合性が取れていたのは人生でなかった経験かもしれない。答案用紙に書いた全ての答えが正解だった時のように、気持ちがいいくらいに全てが上手くいった瞬間だ。今に思えば、この瞬間こそが私の人生のピークだったのかもしれない。




 結婚話はとんとん拍子に進んでいって、あれから半年も経たないうちに私たちは籍を入れて夫婦になった。自分が東姓を名乗る日が来るとは思わなかった。新しい生活は何もかもが新鮮で、東さんとの関係を新しく構築して行くことにも楽しみしかなく、充足感に包まれていた。彼の帰りが遅い事や、泊まり込みが多く帰ってこない日があるのも最初のうちはあまり気にならなかった。
 結婚する少し前、今後の事について相談した上で私はボーダーを辞めた。ボーダーをそのまま何事もなく辞めるには情報を持ち過ぎていた私だったけれど、彼と結婚しているというその一点の事実が記憶抹消処理という悍ましい手段を回避させてくれた。仕事を辞めたのは、彼の後押しもあっての事だった。正直私には仕事を辞めるという選択肢はあまり現実的ではなく、今のまま体力が続く限りは防衛任務について暮らしていけばいいと思っていた。
 彼は別に無理をして続ける必要はないと私にそう言った。自分が同じ歳だった時、体力的な限界はあると感じたからだそうだ。私の考えの中で、体力的に防衛任務が厳しくなれば社員になってしまえば悪いようにはされないと考えていたが、彼は直接的な表現は控えたものの、幹部の嫁が本部配属で働いていれば色々と周りがやりにくい場面も出てくるだろうと考えているようで、その意図をなんとなく読み取った私は指示通りボーダーを辞めるという選択肢を選んだ。
 二十五にして、今の時代専業主婦というのも珍しい立ち位置だと思うし、恵まれていると思う。何より私には沢山の選択肢があって、それを選ぶ自由がある。専業主婦をしたければ現状維持でいいし、社会との関係を完全に断ち切るのが恐ければパートで好きな仕事をして働くという選択肢だってある。皆が選択肢がない少ない中、ほぼ強制的に労働を強いられているのに私ばかりがこんなに恵まれていていいのかと不安になるくらいだった。
 そんな気がひけるような幸せからくる不安が、確実な不安へと変わるのは新婚生活から二ヶ月ほどが経ってからの事だ。今まで気づかないふりをしてたことに、もう気づかないふりを続けることが困難になってきていた。彼を手に入れたのに、私は本当の意味で彼を手に入れられていないのだと気づいてしまったからだ。戸籍上は夫婦、家族といえど私たちは所詮他人で、どれだけ望んでも血の繋がった家族にはなれない。そんな、関係なのだ。
 結婚を承諾してもらったあの時は舞い上がっていて気づくことができなかった。彼が彼女というポジションを踏まず、そのまま結婚を匂わせたのは、段階を踏む事に意味がなかったからなのだろう。それ程彼にとって、結婚の存在意義は大きくなく、そして手段の一つでしかない。
 謂わば、紙切れ一枚の関係なのだから結論そこに辿り着くのであれば一番早いルートを辿るのが正と考えたのではないだろうか、そんな仮説に私はたどり着いてしまった。
 多忙な彼にとって、結婚しても独身の頃の生活と変わる事はない結婚生活に抵抗はなかったのだろう。社会的立場として伴侶がいた方が体裁も良い事もあるだろうし、何よりボーダー内での事情に精通している私は誰より都合がいい。彼の業務量をよくよく知っている私が、そこに不満を漏らす事はないという事もきっと織り込み済みだ。もしそこに私が不満を漏らせば、それは私に罰となって跳ね返ってくるだろう。
 “結婚したいと言ったのはお前だろう“と。結婚するかとは言ってくれたものの、それを言ったのはあくまでも私で、私がそうしたいならそうすると彼は言っただけなのだから。自分がプロポーズだと思っていた彼の言葉が、万が一何かがあった時の言質だったとは当初の私はそれこそ夢にも思わないだろう。長年見ていた夢を、叶えた瞬間だったのだから。
 そんな仮説にたどり着いてしまった私が、今日も一歩踏みとどまって狂わずにいれるのは、彼がしっかりと所在を必要最低限連絡してきてくれるからだ。業務連絡じみたその文面が、如何にも彼らしいなと思う。
 結局気持ち的にも落ち着かない私は、新しい仕事をする訳でもなく、半年間この家で孤独を感じながら専業主婦を続けている。大学の非常勤講師とボーダーの幹部という、収入的に見ても不自由のないこの暮らしは、私の感情を狂わせる。
「ただいま。」
 そんなタイミングを見計らってか、彼が戻ってくる。無心でまな板に野菜を切りつける私を、大きなその体で包み込むように抱きしめて、私が望むことをしっかりと体現する。これが彼の優しさであり、嫁である私の特権である筈なのに、いつから私はこんな裏側を読み取るようになってしまったのだろうか。
「お帰りなさい、東さん。」
「おいおい、東さんはないだろ。お前も今は東だろうに。」
「皆の東さんなのに、私だけが占領していいのかなって。」
「随分控えめなんだな、結婚してほしいと言ってきたお前とは別人のようだ。」
 彼がこの家に帰ってくるのは三日ぶりだ。ボーダー隊員でもなく、既にトリガーも持っていない私はただの一般市民で、三門から少し離れた隣町に新居を構えようと彼が提案した。交通機関を使えばそこまでの距離ではないものの、大学にしても大半以上の拠点を三門に集約している彼は、一室を設けられているボーダー本部の自室に泊まることの方が多かった。きっと、これは結婚する前から彼のルーティンだったのだろう。
「今日は俺の好物か。」
「この間は衣失敗したらリベンジで。料理教室でちょうどこの間やったから。」
「そうか、それは楽しみだな。」
 暇と経済的な余裕だけある私は、気晴らしに料理教室へと通った。少しでも彼が帰ってきたくなる環境を用意する為に、彼の好きな料理を聞いては、料理教室へと通って覚えた。彼自身で作った方が私よりも幾分も美味いのに、美味いと言って彼は私の料理を食べてくれた。
「お前はいい嫁さんだよ、。」
 私が欲しい言葉、して欲しい事を読み解く力が高すぎるからこそ、その裏を探してしまう私の不幸体質はどうにかならないものだろうか。けれど事実として、そんな裏を読んでしまうくらいに、私は今も彼の事が好きでたまらない。
 手に入れられなかったあの時の方が幸せに感じるのは、一体何故なのだろうか。私が望む環境、そして言葉をくれる彼に、どうして私はこうも感情を揺さぶられているのだろうか。その優しさの中に、彼の自我を感じられないからなのかもしれない。全て私の思考を読んで、望み通りにしてくれる彼に、私は彼自身の意思を感じる事ができなかった。
 一通りの下準備を終えて、珍しくリビングで寛いでいる彼の元へと近寄って、ソファーの隣に腰掛ける。物欲しそうな顔で角度をつけて見上げれば、彼はフッと優しいかんばせで私を受け止める。けれど、それだけだ。甘えたようにピッタリと彼の横へと移動すると、察したように大きな手が弄ぶように、私の手の甲に触れる。
「何か言いたそうな顔だな。」
「欲深い卑しい女だって、そう思ってる?」
「いいや。何なら男はそういうの案外好きなんだと思うよ。」
「世間一般の意見じゃなくて、東さんの意見が聞きたい。」
 私は賭けにでたあの頃よりも年齢を重ねて、自分の感情に素直になった。昔であれば言えなかった本音も、今はこうして彼にぶつけることができる。それは“みんなの東さん“が自分の夫になって、物理的に私のものになったからという前提を元に成り立っているのだろう。きっと、余程のことがない限り私が捨てられることはないだろうし、私は周りから羨まれるような嫁だろうと思う。それは、彼が結婚そのものに執着がまるでないからなのだろう。そんな悲しい仮説、外れていればいいのにと思いながら答え合わせをする勇気もなかった。
 望んだものは与えてくれる彼に、私はできる限りの事を求める。焦ったくなった私は、右手を彼の肩にかけて、彼の膝下へと座り込む。両の腕を彼の首にかけて、何故伸ばしているのかもよく知らないその髪を耳にかけながら、彼の反応を私は待つしかない。
「随分と艶っぽい誘い方するんだな。」
「それは東さんの捉え方次第だよ。」
「いつからそんな駆け引きが上手くなったんだ。」
 “俺は何をすればいい?“という、いつものスタイルの彼に私は自分から行動せざるを得なくなる。自分から求めさえすれば、求めている以上のものを返礼してくれる彼の愛情はきっと正しいのだろう。裏を考えてしまう私が、ただ不幸なだけなのだろうとそう思う。けれど、その場限りの快楽と安堵だとしても、私はそれを求めてしまう。これは、私が東春秋という男を好きでいる限り変える事の出来ない事象なのだろう。
「東さんが、そうさせたんでしょ。」
 不毛な約束を打ち立てた私は、その約束を見事成就してこの男を手に入れた。その代償として得た不安という副産物に、私は一生悩まされながら生きていくのだ。それが、彼を手放すことができない私にまとまり付く業なのかもしれない。

意味のない約束
( 2022'01'27 )